肉のプロとしての美学。違いがわかる男でありたい【食べるエッセイvol.3】
自分の仕事に美学を持つ
もしも今「どういう人間でありたいですか?」と問われたら僕は迷わず「肉のプロとして、違いがわかる男でありたい」と答えるでしょう。
“同じであって、同じでない”
「プロ」と呼ばれる人は、みな一様にその人なりの「美学」を持っています。
細やかなところに気をくばり「もっとよくすることはできないか?」と常に思考を巡らせているのです。
数年前、僕はピアニスト・赤松林太郎さんのリサイタルに訪れました。
世界的音楽評論家ヨアヒム・カイザーにドイツ国営第2テレビにて「聡明かつ才能がある」と評された赤松さんのピアノ。
僕は音楽のプロではありませんが、心の深いところに、ストンとピアノの音が優しく届いてくるのがわかりました。
感動の渦がジワジワと押し寄せ、演奏が終わる頃には、自分でも気がつかないうちに、すっかり涙を流していたのです。
どれだけ高級なピアノを用意されても、素人の私が奏でれば、人を感動させることはできません。
しかし赤松さんなら、どんなピアノ、たとえば学校の音楽室にある古びたピアノや、電子オルガンであっても、震え上がるほど素晴らしい演奏を奏でてくれることでしょう。
「奏でる者次第で、音は変わる」
そう確信した出来事でした。
亡き祖父の教え
「肉は焼きすぎるとうまくない。だから、ステーキ皿が重要や。アツアツのステーキ皿に乗せて、その余熱で焼くのがちょうどいいんや」
祖父が生きていた頃、僕はこんなふうにステーキの焼き方を教わりました。
そしてさらに、祖父は続けるのです。
「ご飯はどこの家にもあるものだから、どこよりもおいしく炊きなさい」と。
肉は焼きすぎないこと。お客さんが食べる頃に1番おいしくなるように、ステーキ皿をアツアツにしておくこと。それから、お肉の良さを引き出す、最高のご飯を提供すること……。
同じ肉、同じご飯であっても、細かなところに気を使えば、必ずおいしくなる。
だから、しっかりと違いの分かる男になること。
思い返せば、亡き祖父は僕に、肉のプロとしての心構えを伝えようとしてくれていたのかもしれません。
祖父が食べさせてくれた肉汁たっぷりのステーキの味は、格別においしく、今でもしっかりと記憶に刻まれています。
さて、“美学”という点で振り返ってみると、僕にもきちんとしたプロとしての心構えがありました。
それは、肉の声に耳を傾けること。三田牛に限らず、肉の良さを引き出し、最高の状態でみなさまにお届けすること。
ブランドに関わらず、食用で育てられた全ての牛は、カットの工夫や調理の腕次第で、必ずおしくなると信じています。
もしも、あなたが購入した肉が「おいしくない」と感じてしまったら……残念ながらそれは、肉を扱う立場の人間が、十分に良さを引き出すことができなかったと考えられます。
肉を生かすことができるのも、人間。また良さを殺してしまうのも、人間なのです。
「肉を扱う者によって、おいしさは変わる」
だからこそ、僕は僕になりの美学を持って、みなさまにおいしい肉を届けしたい。
包丁を握る手に、今日も魂と情熱を込めて。
みなさまの今日が、明日が、より豊かでおいしいものになりますように。肉岡肉道でした。
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